スポンサーリンク

野口英世は何をした人?子どもでも分かる簡単なまとめ

野口英世は何をした人?子どもでも分かる簡単なまとめ 雑学

野口英世(のぐちひでよ)は、日本を代表する医学者の一人で、世界の人々を救うために命をかけて研究をした偉人です。

幼いころの大やけどにも負けず、強い意志と努力で医者の道を歩みました。

この記事では、野口英世がどんな人だったのか、どんな研究で有名になったのかを、子どもでも分かるようにやさしく説明します。

最後まで読むと、「あきらめない心」の大切さがきっとわかりますよ。

野口英世とはどんな人?

生まれた場所と子どものころのエピソード

野口英世は1876年11月9日、福島県の三ツ和村(現在の猪苗代町)で、生まれました。

彼が生まれた家は農家で、豊かな自然の中で育ちました。北に磐梯山、南に猪苗代湖を望む風景のなかで、幼い清作(のちの英世)は過ごしていたと言われています。

子どものころ、清作はごく普通の農家の子どもでしたが、家は裕福とは言えませんでした。父は酒を好む人であり、家計を支えるのは容易ではなかったようです。

それでも母・シカは、できる限りの苦労をして清作の学びを支えようとしました。

清作が小学校に入ると勉強はよくでき、成績も優秀だったため、先生に代わって授業をすること(「生長」と呼ばれる役割)を任されることもあったと言われています。

やけどを負ったけど夢をあきらめなかった理由

清作がまだ幼いころ(1歳半ごろ)、囲炉裏(いろり)に落ちてしまい、左手にひどいやけどを負いました。

そのやけどの影響で左手の指はくっついて開かなくなり、日常生活でも不自由さを抱えるようになりました。

このけがが原因で、将来農業を続けるのは難しくなったと考えられます。実際、左手が使えにくいと農作業で重い道具を使うことも困難になります。

しかしこの経験が、清作の心を変える転機にもなりました。というのも、左手の手術を受けた医師の姿を見て、医学と人を救う仕事に強い興味を抱いたからです。

その後、清作は勉強に力を注ぎ、恩師や地域の人々の支援を得ながら、医学の道へ進む決意を固めていきます。

彼は劣勢な環境にもめげず、「学問で身を立てる」という強い意志を持ち続けたのです。

野口英世が何をした人なのかを簡単に説明!

研究者としての道を選んだきっかけ

幼いころのやけどを受けてから、清作(のちに英世)は自分の手の不自由さを強く感じました。

それゆえ農業を続けるのが難しいと思われたことも、医学への関心を深める背景になりました。

後年、左手の手術をした医師の姿を見て、「人を助ける医者になりたい」という思いを抱くようになったのです。

やがて東京で学びながら、アメリカへ渡り、研究者としての道を歩み始めます。彼は最初、ヘビの毒(へびどく)や梅毒(ばいどく)などの研究に取り組み、未知の病気や感染症の原因を探る医学者として活動するようになります。

黄熱病(おうねつびょう)の研究で世界に知られる

1918年、南米や中米で流行していた黄熱病(きいろの熱を出す病気)の研究に野口英世は乗り出しました。

彼はエクアドルに赴き、わずか9日後に患者の体からスピロヘータ(らせん状の細菌)を発見したと発表しました。これが当時「黄熱病の原因」として大きな話題になりました。

しかし後年の研究によって、彼の発見したものは正しくは「ワイル氏病」という、症状が似ている別の病気の病原体であった可能性が高いことが分かっています。

命をかけて病気の原因を突き止めようとした努力

黄熱病の原因がウイルスであることは、当時の技術ではまだ証明できませんでした。

野口は「細菌だ」と信じて研究を続け、世界各地で調査を行いました。

1927年にはアフリカ・ガーナ(当時の英領ゴールデン・コースト)へ赴き、未知の病原体を探そうとしました。彼は滞在期間を延ばしながら、現地で診断法を改良し、予防法や治療法の開発にも取り組もうとしました。

残念ながら、研究中に彼自身も黄熱病にかかってしまい、1928年5月21日、51歳で命を落としました。彼の死は、まさに「命をかけた研究」の結末とも言えます。

野口英世の代表的な功績とすごさ

黄熱病・梅毒など感染症の研究での成果

野口英世は、細菌学・感染症の研究者として、多くの研究を発表しました。

かつて彼は1911年に「梅毒スピロヘータの純粋培養に成功した」と発表し、それが大きなニュースとなりました。

また、1913年には進行性麻痺(梅毒が進行して神経を侵す病気)と脊髄癆(せきずいろう)という病気の患者の脳・脊髄からスピロヘータを確認し、これらが梅毒の進行形である可能性を示したとされています。

さらに黄熱病の研究でも知られ、1918年から中南米で現地調査を行い、患者の検体からスピロヘータ様の微生物を発見したと発表しました。

そしてこの研究をもとに、抗血清やワクチンの開発を試み、現地の流行を抑えることに貢献したとして評価されました。

ただし、後の研究によって、野口が黄熱病と考えたものの中には、実際には「ワイル病」と呼ばれる別の感染症の病原体を見つけていた可能性が高いとされ、彼の発見には誤りがあったという評価もあります。

世界中から尊敬された理由

野口英世は、日本人として初期から海外で研究し、米国ロックフェラー研究所など国際的な研究機関で活躍しました。

そのため、当時、多くの学者から注目され、ノーベル生理学・医学賞の候補にも複数回選ばれています。

また、現地での研究活動や支援への貢献から、エクアドルなどで名誉ある称号を授与されたり、政府からも感謝されたりした事例もあります。

彼の「命をかけて研究する姿勢」「国境を越えて人々を救おうとする志」は、多くの人に強い印象を残しました。

特に、当時は通信・輸送手段も限られていた中で、南米やアフリカへ赴いて調査を行ったその行動力が高く評価されています。

日本のお札に選ばれたのはなぜ?

野口英世が日本のお札(千円札)に選ばれた背景には、彼の知名度と象徴性があります。

研究者としての功績だけでなく、「苦難を乗り越えて夢を追った人」という生涯が、多くの日本人にとって励みとなる存在とされてきたからです。

また、日本国内で野口英世の記念館や銅像、通りの名称などが各地に設置され、広く親しまれてきたことも、お札に選ばれる要因と考えられます。

加えて、教育・福祉分野でも理想像として取り上げられることが多く、国民の「学び」「努力」「知的探求」の象徴人物と位置付けられてきたからだと言えるでしょう。

ただし、お札に採用された人物はその功績そのものだけでなく、国としての象徴性や親しみやすさ、認知度なども考慮されることが多く、野口英世もそれらの要素を備えていたという見方が一般的です。

野口英世の名言やエピソード

「志を得ざれば再び此地を踏まず」—その意味とは?

野口英世が19歳で上京する際、生家の床柱に「志を得ざれば再び此地を踏まず」と小刀で刻んだと伝えられています。

この言葉は「自分の志(目標・夢)をかなえるまでは、この地(故郷)には帰らない」という強い決意を示すものです。

故郷を離れるその瞬間に、自らの志を胸に刻む象徴として、今もその柱や言葉が残されており、多くの人に励ましや力を与えています。

また、野口英世にはこうした言葉も伝えられています。

「努力だ。勉強だ。それが天才だ。誰よりも、三倍、四倍、五倍、勉強するもの、それが天才だ」という言葉が、作文や教育現場で引用されることもあります。

母・シカへの手紙に込められた想い

野口英世が米国で研究をしていた時期、遠く離れた故郷の母・シカが息子に宛てて書いた手紙が残されています。

シカ自身は、幼い頃に文字を学んだものの、長い年月文字を使う機会がなく、手紙を書くことに不慣れだったといいます。

その手紙には、「はやくきてくたされ はやくきてくたされ いしよのたのみてありまする(早く帰って来てください。早く帰って来てください。一生のお願いです)」といった言葉が繰り返され、切実な母の願いが感じられます。

その手紙を受け取った英世は、1915年に15年ぶりに帰国し、母との再会を果たしました。

また、帰国中には母との時間を大切に過ごし、母子の絆が深まったと伝えられています。

英世自身、「母が文字を書けるとは知らなかった」と語ったともいわれており、幼少期には母の表現する思いを知らなかったことが後年の再会で深い感動につながったという見方もあります。

このような言葉やエピソードは、野口英世がただの偉大な研究者ではなく、心のやさしい人間としても人々の心に残る理由のひとつです。

野口英世から学べること

あきらめない心と努力の大切さ

野口英世は、生まれつき恵まれた環境で育ったわけではありません。

幼いころに左手に大やけどを負い、その後の人生に障害を抱えながらも、彼は「自分の夢をあきらめない」という強い意思を持ち続けました。

たとえ失敗や間違いに直面しても、そこから逃げずに研究を続け、「何度倒れても立ち上がる」姿勢を見せてくれます。

実際、彼の人生には論文の反論や研究の誤りなども含まれていましたが、それでも挑戦をやめなかったことが大きな特徴です。

また、野口が夜通し研究に没頭したり、寝る時間を削ったりしながら実験を続けた記録も残っています。

彼は自分の目指す大きなビジョンをもっていたからこそ、日々の困難を乗り越える原動力を保てたのです。

困難を乗り越える勇気をもらえる理由

野口英世の人生には、順風満帆な道だけではなく、多くの試練がありました。

環境の制約、健康上の困難、研究の壁……それらをひとつひとつ受け止め、前に進んでいった彼の姿は、私たちにも「困難はあっても、それを理由にあきらめない」という勇気を与えてくれます。

彼はまた、自らの弱さを認めながらも、「人としての成長」を常に意識していた人物でもありました。

学問だけでなく、人としての鍛錬を重視した言葉も残しており、「学問は第二、人としての修養を第一に」という考えを大切にしていたことが、彼の手紙や言葉から伝わってきます。

さらに、野口の母・シカは、非常に苦しい中でも息子を支え続けました。

シカの努力や愛情があったからこそ、野口は困難な状況でも心を折れず進むことができたと言われています。

母の背中を見て育ったこと、その感謝の気持ちを忘れなかったことも、私たちが学ぶべき姿勢のひとつです。

まとめ|野口英世は努力と情熱で世界に名を残した偉人

短い人生でも世界に影響を与えた研究者

野口英世は、51歳という短い命ながら、日本だけでなく世界の医学・科学の分野に大きな足跡を残しました。

幼いころのやけどというハンディキャップを抱えながら、一歩も後ろを向かずに前を見続け、感染症や細菌学の研究に打ち込みました。

梅毒スピロヘータの研究や黄熱病に関する調査など、当時の技術と常識では非常に難しい課題にも果敢に挑み、多くの功績を残しました。

彼の仕事は、後世の科学者たちにとって道しるべともなったのです。

また、彼が日本人として海外で活動し、国際的に認められたという点も特筆すべきでしょう。

ロックフェラー研究所で働き、ノーベル賞候補にもなり、世界の学界から尊敬を集めたことは、国境を越える“夢”を示す象徴となりました。

今を生きる私たちへのメッセージ

野口英世の人生から学べるのは、「あきらめない心」と「志を持つこと」の大切さです。

困難があっても、障害があっても、目標を胸に、一歩ずつ前に進む姿勢は、今を生きる私たちにも強い励ましを与えてくれます。

また、彼のように人々の健康や命に向き合う研究を志す者にとって、熱意と責任感、そして誠実さこそが、その道を支える大切な柱になるでしょう。

さらに、個人の力だけでなく、周囲の支えも無視できない要素です。野口英世は、母シカや恩師、小林栄ら多くの人たちの助けを得ながら道を拓きました。

夢を追うときには、仲間・家族・師からの支援もまた力になるのだということを彼は教えてくれます。

将来を考える子どもたちにとって、野口英世の物語は、「自分にしかできないことを見つけ、努力を重ね、困難に打ち勝つ」ための大切なヒントを与えてくれるものです。

彼が残した言葉や行動は、今も私たちを前に進ませてくれる灯(とも)りとなっています。

タイトルとURLをコピーしました