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村上泰斗の高校は神戸弘陵|中学・出身地からドラフト1位までの経歴

村上泰斗の高校は神戸弘陵|中学・出身地からドラフト1位までの経歴 スポーツ

福岡ソフトバンクホークスの村上泰斗投手について、「高校はどこ?」「神戸弘陵ではどんな選手だった?」「中学時代から投手だったの?」と気になっている人も多いのではないでしょうか。

結論からいうと、村上泰斗投手の高校は神戸弘陵学園高等学校です。出身は兵庫県猪名川町で、白金小学校、猪名川中学校を経て神戸弘陵へ進学しました。

猪名川中学校時代は学校の野球部ではなく、大阪箕面ボーイズで硬式野球に取り組んでいます。猪名川町の広報でも、村上投手の経歴は「猪名川幼稚園→白金小学校(白金メッツ)→猪名川中学校(大阪箕面ボーイズ)→神戸弘陵学園高等学校」と紹介されています。

そして、村上投手の学生時代を理解するうえで最も重要なのが、中学までは捕手が中心で、本格的に投手へ挑戦したのは神戸弘陵へ進学してからという点です。

高校1年時には捕手と投手を併用する期間もありましたが、その後は投手に専念。高校2年で150キロを超える速球を投げるまでに成長し、2024年のドラフト会議では福岡ソフトバンクホークスから1位指名を受けました。ソフトバンク公式も、中学時代は控え捕手で、高校入学後に本格的に投手へ転向した選手と紹介しています。

2026年現在もソフトバンクに所属し、背番号20の投手として登録されています。

この記事では、村上泰斗投手の高校である神戸弘陵を中心に、中学、出身地、小学生時代までさかのぼりながら、どのようにドラフト1位投手へ成長したのかを詳しく見ていきます。

村上泰斗の高校は神戸弘陵学園高等学校

村上泰斗投手が通っていた高校は、兵庫県神戸市にある神戸弘陵学園高等学校です。

神戸弘陵は1983年に学園創立と同時に硬式野球部が発足し、春の選抜甲子園に4回、夏の全国高校野球選手権大会に1回出場しています。1994年春には全国ベスト8、1989年夏にはベスト16まで進みました。

村上投手は甲子園出場こそ果たせませんでしたが、この神戸弘陵で捕手から投手へと軸足を移し、プロ野球のドラフト1位候補と評価されるまでに成長しています。

神戸弘陵への進学には大阪箕面ボーイズとの縁があった

「なぜ村上泰斗投手は神戸弘陵を選んだのか」という点も、学生時代の経歴を知るうえで重要です。

中学時代に所属していた大阪箕面ボーイズと神戸弘陵には縁がありました。

Number Webの取材によると、大阪箕面ボーイズの監督が神戸弘陵出身だった縁から、村上投手は神戸弘陵へ進学しています。

一方、神戸弘陵の岡本博公監督は、村上投手との出会いについて、中学時代のチーム関係者から肩と体の強い捕手がいると紹介されたことがきっかけだったと振り返っています。

つまり、当初から「将来有望な投手」として神戸弘陵側に知られていたわけではありません。

むしろ最初に目を引いたのは、捕手としての強肩と身体能力でした。

村上投手の進路を整理すると、次の流れになります。

  • 大阪箕面ボーイズで主に捕手としてプレーする
  • 強肩と身体能力を神戸弘陵側から評価される
  • 大阪箕面ボーイズと神戸弘陵の縁もあり進学する
  • 面談で本人が高校では投手をやりたいという意思を示す
  • 神戸弘陵で本格的な投手育成が始まる

神戸弘陵への進学は、学校が変わっただけではありません。

「捕手の村上泰斗」から「投手の村上泰斗」へと野球人生そのものが変化するきっかけになりました。

本人が高校では投手をやりたいと希望していた

村上泰斗投手は、中学時代に投手として中心的に起用されていたわけではありません。

それでも本人には以前から投手への興味があり、神戸弘陵との面談で「高校ではピッチャーがしたい」という希望を伝えています。

岡本監督も村上投手の肩の強さや鋭い腕の振りを見て、投手への挑戦を後押ししました。

後からドラフト1位という結果だけを見ると、投手転向は当然の選択だったように感じられます。

しかし当時の村上投手は、中学でエースを務めてきた選手ではありません。

実績のある投手をさらに伸ばしたのではなく、強肩の捕手が高校で新しく投手として勝負を始めたところに、この経歴の特徴があります。

高校1年時は捕手と投手を併用していた

「村上泰斗投手は高校入学と同時に完全に投手一本になった」と理解するのは、少し正確ではありません。

ソフトバンクの担当スカウトは、村上投手について「1年目はキャッチャーとピッチャーを併用し、2年目に投手に専念した」という趣旨で説明しています。

したがって、より正確に整理すると、

高校入学後に本格的に投手へ挑戦し始め、1年時には捕手との併用期間もあり、その後投手として本格化した

という流れです。

この違いは小さく見えて重要です。

高校から投手を始めたこと自体が異例なのに加え、最初から投手として完成した環境にいたわけではなく、複数ポジションを経験しながら適性を伸ばしていったことが分かるからです。

高校1年時は公式戦登板がなかった

村上泰斗投手は、高校1年時には公式戦で登板していません。

Sportivaによると、1年秋には練習試合でAチームのマウンドに立つ機会が増えていましたが、公式戦ではベンチ外でした。

高校入学後に投手へ挑戦した選手ですから、この段階ではまだ投手としての基礎を身につけている途中だったと考えた方が自然です。

実際、岡本監督も投手転向当初について、強い球は投げられたものの、制球は安定せず力任せの部分があったと振り返っています。

ドラフト1位投手という肩書から、高校1年から絶対的エースだった姿を想像すると実態とは異なります。

公式戦登板のない1年生から、約2年でドラフト1位まで評価を高めたことこそ、村上投手の神戸弘陵時代を特徴づける部分です。

村上泰斗の中学は猪名川中学校

村上泰斗投手の出身中学校は、兵庫県猪名川町の猪名川中学校です。

猪名川町が発行した広報誌にも「白金小・猪名川中出身」と明記されており、地元自治体が確認できる情報です。

ただし、中学時代の野球歴を調べる際には「猪名川中学校」と「大阪箕面ボーイズ」を混同しないよう注意が必要です。

中学時代の硬式野球チームは大阪箕面ボーイズ

村上泰斗投手は猪名川中学校に通いながら、硬式野球では大阪箕面ボーイズに所属していました。

大阪箕面ボーイズの公式サイトにも、29期生の村上泰斗投手が神戸弘陵へ進み、2024年ドラフト1位で福岡ソフトバンクホークスに入団した卒団生として掲載されています。

つまり、学校と野球チームを分けると次のようになります。

項目村上泰斗投手の経歴
出身中学校猪名川中学校
中学時代の硬式野球チーム大阪箕面ボーイズ
主なポジション捕手を中心に内野・外野も経験
高校神戸弘陵学園高等学校
高校での主なポジション投手

「村上泰斗の中学は大阪箕面ボーイズ」と表現すると、学校名と野球チームが混ざってしまいます。

中学校は猪名川中学校、所属チームは大阪箕面ボーイズと覚えておくと分かりやすいでしょう。

大阪箕面ボーイズでは捕手が中心だった

中学時代の村上泰斗投手は、現在のような速球派投手としてプレーしていたわけではありません。

メインポジションは捕手でした。

ソフトバンク公式では「中学時代は控え捕手」と紹介されており、神戸弘陵の岡本監督も同様の認識を語っています。

一方、村上投手本人の説明を確認すると、「控え捕手」の一言だけでは当時の状況を十分に表せません。

「控え捕手」でも試合には複数ポジションで出場していた

Number Webの取材で村上泰斗投手本人は、中学時代の起用についてより詳しく説明しています。

同学年の投手が投げるときには村上投手が捕手を務め、1学年下の投手が投げる場合には後輩捕手がマスクをかぶることがあり、その際には村上投手が内野や外野で出場していたとしています。

そのため、中学時代を単純に「試合に出ていない控え捕手」と理解するのも正確ではありません。

より実態に近いのは、

  • 捕手が中心だった
  • 投手との組み合わせによって捕手として出場していた
  • 捕手以外では内野や外野も守っていた
  • 本格的な投手経験は高校入学後までほとんどなかった

という姿です。

複数ポジションを経験していたこともあり、高校入学時点で特定の守備位置だけに完成された選手ではありませんでした。

それでも強肩と身体能力は高く評価されており、その素材が神戸弘陵で投手として生かされることになります。

村上泰斗の出身は兵庫県猪名川町

村上泰斗投手の出身地は兵庫県川辺郡猪名川町です。

ソフトバンク公式選手名鑑では出身地を兵庫県としていますが、猪名川町の公式広報や複数の高校野球報道では猪名川町出身と確認できます。

猪名川町はドラフト1位指名後に広報誌で村上投手を大きく紹介しており、2025年にはドラフト1位指名の功績によって町のスポーツ賞にも選ばれています。

小学校は白金小学校

村上泰斗投手の出身小学校は白金小学校です。

猪名川町の公式広報には、白金小学校から猪名川中学校、神戸弘陵学園高校へ進んだ経歴が掲載されています。

プロ入り後には白金小学校と猪名川中学校を訪問し、在校生に自身の経験や「夢」について話したことも猪名川町から紹介されています。

プロ野球選手となった後も、地元とのつながりが続いていることが分かります。

小学1年生から白金メッツで野球を始めた

村上泰斗投手が野球を始めたのは小学1年生のころです。

地元の少年野球チーム白金メッツに入り、野球を始めました。猪名川町の町長による記録にも、小学校1年生で白金メッツへ入団したころからの歩みが紹介されています。

日刊スポーツなどのプロフィールでは、小学生時代には捕手を中心に投手も経験していたとされています。

高校で突然投手というポジションを知ったわけではありません。

ただし、中学では捕手が中心となり、高校から再び本格的に投手へ向かうことになります。

村上泰斗の経歴を小学校から現在まで整理

ここまでの情報を時系列で並べると、村上泰斗投手の成長過程がかなり分かりやすくなります。

特に「中学までの捕手経験」と「神戸弘陵での投手転向」を分けて見ることがポイントです。

時期学校・所属主な出来事
小学生白金小学校・白金メッツ小学1年から野球を始める
中学生猪名川中学校・大阪箕面ボーイズ捕手を中心に内野・外野でも出場
高校1年神戸弘陵本格的に投手へ挑戦。捕手との併用時期もあり、公式戦登板なし
高校2年春神戸弘陵背番号11でベンチ入り
高校2年夏神戸弘陵公式戦初登板。練習試合では152キロを計測
高校2年秋神戸弘陵背番号1となりエースを務める
高校3年神戸弘陵プロ注目投手として活躍。最速153キロと報じられる
2024年秋神戸弘陵ソフトバンクからドラフト1位指名
2025年~福岡ソフトバンクホークスプロ野球選手としてプレー

この経歴を見ると、中学時代から投手として全国大会で実績を積み重ねてきた典型的なドラフト1位候補とは違うことが分かります。

村上投手の場合、高校に入ってから投手としてのキャリアが本格的に始まり、そこから急激に評価を高めています。

神戸弘陵で村上泰斗はどのように成長したのか

村上泰斗投手の神戸弘陵時代を理解するには、「最速153キロ」という完成後の数字だけを見るのでは不十分です。

高校1年時には公式戦登板がなく、2年で試合経験を積み、制球面で苦しみながら3年で投手としての安定感を高めています。

その過程を追うと、ドラフト1位までの成長速度がより鮮明になります。

高校1年秋の球速は資料によって表記が異なる

村上泰斗投手の高校1年時の球速については、媒体によって数字に違いがあります。

Sportivaでは1年秋に135~136キロを記録していたとされています。一方、スポニチでは1年秋の自己最速を142キロと紹介しており、別の記事では140キロを突破した時期として扱われています。

したがって、「高校1年秋は必ず135キロだった」「142キロだった」と一つの数字だけを断定するより、

高校1年の段階では130キロ台半ばから140キロ台前半まで球速を伸ばしていた

と理解するのが安全です。

高校野球の球速は計測機器や計測した試合・練習によって差が出るため、最高球速を比較する際には測定時期も確認する必要があります。

ただし、どの資料に共通しているのも、まだ150キロには届いていなかった高校1年から、その後短期間で急激に球速を伸ばしたという事実です。

高校2年春に初めてベンチ入りした

高校1年では公式戦登板がなかった村上泰斗投手ですが、2年春に背番号11でベンチ入りします。

そして夏の兵庫大会、宝塚北との3回戦で3番手として登板し、公式戦初マウンドを経験しました。

1イニングを打者3人で抑えています。

続く滝川第二との5回戦では先発を任されましたが、9安打4失点で6回途中に降板し、神戸弘陵も4-6で敗れました。

プロ入り後の姿だけを見ると順調に勝ち続けてきたようにも感じますが、高校で投手を始めた村上投手には、試合経験を積みながら学んでいく期間がありました。

敗れた相手投手からカットボールを学んだ

滝川第二戦の敗戦は、村上泰斗投手の技術面にも影響を与えています。

当時の滝川第二には、後に東北楽天ゴールデンイーグルスへ進む坂井陽翔投手がいました。

村上投手は坂井投手が使っていたカットボールに注目し、カウントを取る球として自分も使えるようにしたいと考えて習得へ取り組んでいます。

球速を伸ばすことだけに集中していたわけではありません。

対戦相手の良い部分を観察し、自分の投球へ取り込んでいたことが分かるエピソードです。

高校2年で152キロまで球速を伸ばした

村上泰斗投手が高校野球界で急速に注目されるようになった大きな理由が、高校2年時の球速アップです。

スポニチによると、高校1年秋に142キロだった自己最速が、2年6月の練習試合で152キロまで伸びました。

わずかな期間で約10キロ伸びたことになります。

別資料では高校入学時を135キロ前後としているため、入学時点から見るとさらに大きな伸び幅です。

YouTubeで見つけたトレーニングも実践していた

村上泰斗投手の球速アップには、本人の研究熱心な姿勢も関係しています。

高校1年冬には、YouTubeで「150キロを出すためのトレーニング」という内容の動画を見つけ、そこで紹介されていた瞬発力を高めるトレーニングに取り組みました。

その後、2年6月の練習試合で152キロを計測しています。

もちろん、一つの動画を見ただけで球速が10キロ伸びたと考えるのは適切ではありません。

神戸弘陵での日々の練習や身体づくり、フォーム改善など複数の要因が重なった結果と見るべきでしょう。

それでも、受け身で与えられた練習だけをこなすのではなく、自分でも速い球を投げる方法を調べていた点は、村上投手の成長過程を考えるうえで見逃せません。

プロ投手のフォームも研究していた

村上泰斗投手は、投球フォームについても一流投手の動きを研究していました。

日刊スポーツによると、大谷翔平投手や佐々木朗希投手の足の上げ方、前田健太投手や山岡泰輔投手の下半身の使い方などを参考にしながら、自分のフォームをつくっていったとされています。

高校から本格的に投手を始めたため、投手としての経験値では小学生や中学生から専門的に投げてきた選手に及びません。

その差を埋めるように自分で研究を重ねたことが、急成長を支えた要素の一つだったと考えられます。

高校2年秋から神戸弘陵のエースになった

村上泰斗投手は、高校2年秋から背番号1を付け、神戸弘陵のエースとなりました。

高校入学時には本格的な投手経験がなかった選手が、約1年半で高校野球部のエースを任されるまでに成長したことになります。

ただし、この時点でも完成された投手ではありませんでした。

走者を出した後の制球に課題があった

球速が大きく伸びる一方で、村上泰斗投手には制球面の課題が残っていました。

速いストレートで打者を圧倒できても、走者を背負った場面で制球を乱すことがありました。

高校から本格的に投手を始めた村上投手にとって、単純に強い球を投げることから、試合全体を組み立てることへ進む必要があった時期です。

この課題は、高校3年になると徐々に改善されていきます。

高校3年春に14奪三振で公式戦初完封

高校3年になると、村上泰斗投手は球速だけでなく試合をまとめる力でも成長を見せました。

2024年4月20日の春季兵庫県大会2回戦・八鹿戦では、150キロを計測しながら被安打2、14奪三振。

神戸弘陵を2-0の勝利へ導き、公式戦初完封を記録しました。

14奪三振のうち13個をストレートで奪っています。

一方で与四球は3つに抑え、前年まで課題となっていた制球面にも改善が見られました。

単に「どれだけ速い球を投げるか」から、「どうすれば公式戦で勝てるか」へ意識が変化していたことが分かります。

神戸国際大付戦では満塁から無失点で切り抜けた

続く神戸国際大付との3回戦では、神戸弘陵は1-3で敗れました。

村上泰斗投手は途中から登板し、2回1/3を投げて2安打無失点、4奪三振。

6回途中、2死満塁という厳しい場面からマウンドに上がり、失点を防いでいます。

高校2年までは走者を背負った場面で制球を乱すことが課題だったため、こうした場面でアウトを取れたことにも成長が表れています。

高校時代のチーム成績だけを見ると県大会敗退ですが、投手個人の内容まで見ると前年から変化していたことが分かります。

高校最後の夏はノーヒットノーランまであと2人に迫った

村上泰斗投手の神戸弘陵時代を代表する試合の一つが、2024年7月13日の兵庫大会2回戦・飾磨工戦です。

先発した村上投手は8回まで無安打。

9回1死までノーヒットノーランを続けましたが、あと2人のところで中越え二塁打を許しました。

最終的には2安打1失点ながら11奪三振で完投し、神戸弘陵が6-1で勝利しています。

高校1年時には公式戦登板さえなかったことを考えると、わずか2年余りで9回を支配できる投手へ成長したことになります。

最後の試合でも2回5奪三振無失点

その2日後、神戸弘陵は3回戦で西宮今津と対戦しました。

村上泰斗投手は中1日だったこともありベンチスタート。

2-3とリードされた8回、無死一、二塁という場面で登板すると、3者連続三振でピンチを切り抜けました。

9回にも2三振を奪い、2イニングで打者6人を相手に5奪三振、無失点。

しかしチームは2-3で敗れ、村上投手の高校野球はここで終了しました。

投手として圧倒的な内容を残しながら、甲子園には届きませんでした。

村上泰斗は神戸弘陵時代に甲子園へ出場していない

村上泰斗投手について調べる際、意外に感じる人が多いのが甲子園への出場経験がないことです。

高校3年夏も兵庫大会3回戦で敗れたため、神戸弘陵の選手として春夏の甲子園には出場していません。

それでも全国のプロ球団から高く評価されました。

最後の夏には阪神のスカウトからも、全国の高校生の中でトップクラスで上位候補という評価を受けています。

村上投手の経歴を見るうえでは、

  • 甲子園で全国的な実績を残した選手ではない
  • 高校から本格的に投手へ挑戦した
  • 短期間で150キロを超える投手へ成長した
  • 公式戦でも完封や11奪三振完投などの結果を残した
  • 甲子園未出場でもプロから将来性を高く評価された

という点をセットで理解することが大切です。

甲子園に出場したかどうかだけでは、村上泰斗投手の高校時代の評価は測れません。

神戸弘陵の環境が村上泰斗の投手転向を支えた

村上泰斗投手の急成長を本人の身体能力だけで説明することもできません。

神戸弘陵には、本人が希望した新しいポジションへ挑戦させる環境がありました。

中学では捕手だった選手に対し、「捕手として入学したのだから捕手を続ける」という固定的な扱いをせず、本人の投手希望と身体能力を踏まえて挑戦させています。

岡本監督が本人の希望を尊重した

神戸弘陵の岡本博公監督は、中学時代の村上泰斗投手について、まず強肩の捕手として存在を知りました。

ところが本人との面談では「高校では投手をやりたい」という希望を聞きます。

そこで肩の強さや腕の振りを見たうえで、投手として勝負することを認めました。

重要なのは、結果が出る前から投手への挑戦機会が与えられたことです。

1年時には公式戦登板がなく、制球も安定していませんでした。

それでも投手として育成を続けた結果、高校2年には152キロ、高校3年には最速153キロと報じられる投手になりました。

神戸弘陵時代の最速は152キロと153キロの両方がある

村上泰斗投手の高校時代について調べると、「最速152キロ」と「最速153キロ」の両方が出てきます。

これはどちらか一方が単純な誤りとは限りません。

ソフトバンクの2024年ドラフト公式ページでは、村上投手を最速152キロ右腕と紹介しています。

一方、高校3年夏の日刊スポーツなどでは最速153キロとして報道されています。

時系列では、高校2年6月に152キロを計測したことが確認され、その後の高校3年時には153キロとして紹介されるようになっています。

したがって、高校時代を通した自己最速としては153キロとする報道が多いものの、球団公式資料では152キロ表記もある、と理解するのが適切です。

球速、具体的な球種、ストレートの回転数については「村上泰斗の最速・球種・回転数|投球の特徴」で詳しく確認すると、投手としての特徴がさらに分かりやすくなります。

村上泰斗は神戸弘陵からソフトバンクのドラフト1位へ

高校最後の夏に甲子園出場を逃した後、村上泰斗投手はプロ志望を明確にしました。

西宮今津戦後には進路について「プロ1本」と話し、プロ志望届を提出する意思を示しています。

そして2024年10月24日のドラフト会議で、福岡ソフトバンクホークスから1位指名を受けました。

ソフトバンク公式の指名選手一覧でも、1巡目に「村上泰斗・神戸弘陵学園高等学校」と掲載されています。

中学では捕手。

高校1年では公式戦登板なし。

高校2年春に初めてベンチ入りし、そこから150キロを超える投手へ急成長。

甲子園には届かなかったものの、高校卒業時にはドラフト1位指名を受けるところまで評価を高めました。

村上泰斗投手のドラフト指名時の評価や阪神との関係については、「村上泰斗のドラフト・阪神に関する情報」で詳しく整理すると、今回の学生時代の経歴と切り分けて理解できます。

村上泰斗の高校・中学・出身で間違えやすいポイント

村上泰斗投手の経歴には、資料によって表現が少し異なる部分があります。

学校や所属チーム、投手転向時期、球速を分けて整理しておけば混乱しにくくなります。

「中学は大阪箕面ボーイズ」ではない

村上泰斗投手が通っていた中学校は猪名川中学校です。

大阪箕面ボーイズは、中学生時代に硬式野球をしていた所属チームです。

猪名川町公式では白金小学校・猪名川中学校出身と確認でき、大阪箕面ボーイズ公式では同チームの29期生として確認できます。

学校とクラブチームを区別しておく必要があります。

「中学ではずっとベンチの控え捕手」でもない

ソフトバンク公式や神戸弘陵の監督は、中学時代の村上泰斗投手を「控え捕手」「2番手捕手」と説明しています。

ただし本人によれば、同学年の投手が投げるときには捕手として出場し、後輩の投手が登板する際には別の捕手が入り、自身は内野や外野を守ることがありました。

したがって、「まったく試合に出ていない控え捕手」とするのは正確ではありません。

捕手を中心に複数ポジションでプレーしていた選手と捉えるのが実態に近いでしょう。

「高校入学直後から投手一本」でもない

村上泰斗投手は神戸弘陵入学後に本格的に投手へ挑戦しました。

ただしソフトバンク担当スカウトによれば、高校1年時には捕手と投手を併用し、2年目から投手へ専念しています。

そのため、

「中学まで捕手、高校入学後に投手へ挑戦し、徐々に投手へ軸足を移した」

と理解するのが最も自然です。

高校1年時と高校3年時の球速には資料差がある

球速も資料ごとに異なります。

高校1年秋については135~136キロとする資料と142キロとする資料があり、高校最速についてもソフトバンク公式の152キロと、高校3年夏の報道による153キロがあります。

球速は測定機器や時期によって数字が異なるため、一つの数字だけで他の資料を誤りと判断しない方がよいでしょう。

村上泰斗の高校・中学・出身に関するよくある疑問

ここまでの経歴から、特に検索されやすいポイントを短く確認しておきます。

詳細まで把握したうえで結論だけ確認したい場合にも役立ちます。

村上泰斗の高校はどこ?

神戸弘陵学園高等学校です。

高校入学後に本格的に投手へ挑戦し、2年春にベンチ入り。2年秋からエースを務めました。

高校3年夏には最速153キロ右腕として注目され、卒業前の2024年ドラフト会議で福岡ソフトバンクホークスから1位指名されています。

村上泰斗の中学はどこ?

猪名川中学校です。

中学時代は大阪箕面ボーイズで硬式野球をしていました。

猪名川中学校が学校名、大阪箕面ボーイズが所属していた野球チームです。

村上泰斗の出身地はどこ?

兵庫県川辺郡猪名川町です。

白金小学校、猪名川中学校を経て神戸弘陵へ進みました。猪名川町の公式広報でも地元出身選手として紹介されています。

村上泰斗は中学時代から投手だった?

中学時代は主に捕手でした。

内野や外野でも出場していましたが、本格的な投手経験は神戸弘陵へ進学してからです。

高校1年時には捕手と投手を併用し、その後投手へ専念しました。

村上泰斗は甲子園に出場した?

高校時代に甲子園出場経験はありません。

3年夏は兵庫大会3回戦で西宮今津に2-3で敗れました。

村上投手自身は最後の試合で2回5奪三振無失点と好投しましたが、甲子園には届きませんでした。

村上泰斗は中学の捕手から神戸弘陵でドラフト1位投手へ成長した

村上泰斗投手の高校は神戸弘陵学園高等学校、出身中学校は猪名川中学校、出身地は兵庫県猪名川町です。

小学1年生から地元の白金メッツで野球を始め、中学生になると大阪箕面ボーイズへ所属しました。

現在の姿からは意外ですが、中学時代の中心ポジションは捕手です。

神戸弘陵への進学には大阪箕面ボーイズとの縁があり、当初は強肩の捕手として評価されていました。

しかし村上投手自身が高校では投手に挑戦したいという希望を持っており、岡本博公監督もその可能性を認めます。

高校1年時には捕手との併用期間があり、公式戦登板もありませんでした。

それでも練習やフォーム研究、身体づくりを重ね、高校2年春にベンチ入り。

2年6月には152キロを計測し、秋にはエースを任されるまでになります。

高校3年春には八鹿戦で被安打2、14奪三振の公式戦初完封。

最後の夏には飾磨工戦で9回1死までノーヒットノーランを続け、11奪三振で完投しました。

甲子園出場は果たせませんでしたが、最後の西宮今津戦でも2イニング5奪三振無失点。

そして2024年秋、福岡ソフトバンクホークスからドラフト1位指名を受けています。

村上泰斗投手の学生時代を一言で整理するなら、「兵庫県猪名川町で野球を始め、中学までは捕手を中心にプレーし、神戸弘陵で本格的に投手へ転向してドラフト1位まで成長した選手」です。

中学時代から世代を代表する投手だったわけでも、高校1年からエースだったわけでもありません。

神戸弘陵へ進んだことをきっかけに新しいポジションへ挑戦し、試合経験がほとんどないところから急速に成長したことこそ、村上泰斗投手の高校・中学時代の経歴で最も特徴的な部分といえるでしょう。

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